奈良県・磐城村太田方の小作争議 3

 一部の歴史書では記述がある「磐城村太田方の小作争議」や地元の農民運動ですが、現在では私が調べた範囲では完全に封印されています。その当時からおよそ100年経った現在この地域は当時の面影はなくなっています。当時小作農であった人々の多くは、敗戦後自作できる土地を手に入れ、当時とは比べものにならない生活を手にいれました。
 現在約100年の空白の歴史を埋める作業を始めていますが、その当時の事を語ってくれる人はいません。当時の農民運動を指導した人は、みんな亡くなっており、その子孫の方を探り当てお話を聞いて回る事しかない。そして当時の資料を探し当てる事しかない。

 これまで、1925年当時この地域の日本農民組合連合会会長をされていた方の子供・Aさんにお話を聞くことができました。現在では、Aさん自身も相当高齢なので具体的な事は不確実な事が多いでした。
 その中で印象に残った事実は、①『日露戦争に行って、数少ない金鵄勲章をもらった人であった事』、②『地元の地主・B家と近い関係にあった事』、③『水平社運動との関係が深かった事』、④『ボッコ姿で大阪の中之島公会堂で演説した事』、⑤『二人の朝鮮人の話が出てきた事』、⑥『後輩に伊瀬幸太郎さんがいた事』などでした。
 ②に関しては、B家の「氏めい」とAさんの「氏めい」が、確かによく似ています。④に関しては、何時の何の集会かは具体的な事は不明でした。⑤に関しても、そのうちの一人が全虎岩(立花貞治)さんかどうかは不明でした。

 次に、1925年日本農民組合結成大会が開かれた北葛城郡新庄町疋田(現・葛城市疋田)の浄土真宗興正派・正光寺を訪ねました。このお寺では結成大会だけでなく何回か諸会議も行われており、農民組合に関する資料や面影が残っていないか、と思って訪ねましたが、残念ながら現在の住職から、逆に「そうだったんですか」と感心されてしまいました。

 

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