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zoom RSS 『第17回イ・ギュン氏とペ・サンド氏の追悼集会』

<<   作成日時 : 2010/12/23 00:44   >>

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さる12月4日、三重県熊野市の木本トンネル入口・追悼碑前において『第17回イ・ギュン氏とペ・サンド氏の追悼集会』が行われました。

イ・ギュン氏とペ・サンド氏は、1926年1月3日に当時の木本警察署長と町長によって要請された武装した在郷軍人、消防組員によって虐殺されました(木本事件)。この事件が起こる3年前の1923年には、関東大震災が起っており多くの朝鮮人・中国人が虐殺されています。

この木本事件は、1926年1月2日夜に明治座という映画館で入場料をめぐって、 日本人住民と朝鮮人労働者が口論となり、日本人が朝鮮人を日本刀で切りつけ負傷を負わせた事が発端です。

木本町と大泊港を結ぶ木本トンネルの建設のために、多い時で200人以上の朝鮮人労働者が、働いていました。大日本帝国による朝鮮の植民地化は、人々から土地を奪いさり生活できなくさせ、多くの朝鮮の人々は日本での労働を余儀なくされていました。この木本トンネル工事で働いていた朝鮮人労働者も、祖国を離れて日本人労働者に比べて安い賃金で働かざるを得ない労働者達でした。

日本人と朝鮮人労働者との口論、そして日本人による傷害に対して、警察は犯人を逮捕せず、すぐ釈放してしまいます。この対応に不満を感じた朝鮮人労働者たちは、木本神社に集まり、ここで朝鮮人労働者と木本住民との間でケンカがはじまります。
木本町長は、在郷軍人と消防組に出動を要請します。要請された連中は、一方的に朝鮮人労働者の飯場を襲撃し家財道具を壊したり、正月料理を踏みつぶしたり暴虐の限りを尽くしたのです。連中は朝鮮人労働者のみならず、日本人労働者に対しても重傷を負わせるという行為を行いました。 この行為に対して日本の一部の労働者も反撃します。この時、在郷軍人や消防組の暴挙を止めようとしたイ・ギュンさんとペ・サンドさんの2人の朝鮮人労働者を虐殺したのです。

二人の朝鮮人労働者虐殺から、85年を経ようとする2010年12月4日、三重県熊野市に向かい、はじめて追悼集会に参加しました。
集会は、午後3時より木本トンネル熊野市側入口に建てられた追悼碑前で行われました。1994年に建立された追悼碑、毎年追悼集会がこの碑の前で行われてきました。今年は、韓国江原道からも二人の方が参加されました。
近くの紀州鉱山に連行されていた丁さんの一男チョン・ビョンソクさんの献花、献杯で追悼の後、参加者全員が思いを述べました。

私も、追悼碑の前で自分の思いを言いましたが「日本人」の一人として、虐殺した側の「日本人の一人」として、すごく心苦しい感情でした。この時ほど「日本人」を意識した事はありませんでした。何故、何事もなかったかような素ぶりで虐殺された二人の前にいられるのか。どれだけの責任を取り得てきたのか。決して、この場にいる事で何らかの責任をとったとは言い切れないが、しかし、ここからしか始まらないんだと、私は心の中で言い訳していました。追悼集会の最後に参加者全員で追悼碑の前で写真を撮った後、当時の情景を思いうかべつつ、二人の墓がある極楽寺に向いました。

追悼碑から、極楽寺までは歩いて約10分ぐらいです。1926年1月2日から3日、この周辺はおそらく、凄まじい銃声や怒号が飛びかい木本住民による「朝鮮人狩り」が行われていたと思うと、何とも言えない気分になります。
朝鮮人労働者の飯場跡、その近くの笛吹橋のあたりで当時25才の李基允さんは殺害されます。李基允さんは、在郷軍人や消防組員らが飯場を襲撃し家財道具や正月料理を踏みつぶし、朝鮮人と思い川竹亀一さんに重傷を負わせるなどの暴挙を止めようとしましたが、鳶口を頭に突きつけられ殺害されたのです。殺害された後も、笛吹橋から有本湯前まで引きずって行かれ、そのまま2時間以上も放置されていました。
暴挙は、それだけでは収まらず逃げまどう朝鮮人労働者やその家族に向けて、猟銃を発射し或いは日本刀を振り回し襲撃し続けます。迫ってくる連中らに対して、朝鮮人労働者はダイナマイトで反撃します。
二人目の犠牲者、29才の ペ・サンドさんは、ダイナマイト音がする笛吹橋方向に向う途中の有本湯のあたりで殺害されました。
二人の遺体は、有本湯から極楽寺の墓地まで運ばれ、1週間も野ざらしのまま放置されていました。「雪のふりつもった極楽寺の共同墓地に放置された惨死体、烏がむらがっていた」(朝鮮日報1926年2月4日)

竹槍・鳶口・日本刀・猟銃などで武装した在郷軍人や消防組を中心とした「日本人」の手によって惨たらしい殺され方をしたイ・ギュンさんとペ・サンドさん。
しかし当時の地元新聞は、虐殺した側の在郷軍人や消防組の「日本人」を『わが民族の先駆者として尊敬すべく・・・・』と報道していたように、当時の「日本」全体の大多数が民族差別・排外主義にまみれていただけでなく、敗戦後の1989年の地元紙においてさえ『在郷軍人が朝鮮人を保護しようとしたところ、朝鮮人がダイナマイトで防衛したので、住民がパニックに陥って朝鮮人を虐殺した』というように偽りの報道がされています。

また現在の熊野市行政も、イ・ギュンさんとペ・サンドさんが虐殺された木本事件を『素朴な愛町心の発露』と記した「熊野市史」の書き換えを拒否したままです。

1994年11月に、現在の地に追悼碑が建立され毎年追悼集会が開催されています。今年は17回目の開催でした。
当初は熊野市と協同で追悼碑建立の予定でしたが、熊野市は二人の虐殺の責任や植民地支配を認めず一般的人道問題とする碑文を提案したため「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」が、独自で追悼碑の建立を行いました。

私は今回の追悼集会に参加して、改めて私たち「日本人」「日本」は、朝鮮をはじめとしたアジア諸国人民に対する侵略戦争責任・植民地支配責任をとり切ってない事実を確認すべきだと思いました。

過去の歴史を知らない、いや過去の歴史を知ることに躊躇しようとする「日本人」のあり方の変革こそが問題だとおもいました。
それを踏まえたうえで、犠牲になった多くの人々を追悼することからはじめようではありませんか。




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コメント(4件)

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木本事件に至るまでの、朝鮮人労働者達による徒党を組んで傍若無人な行為については記事になっていない。
捏造
2016/09/01 18:18
この偏りのある記事について捕捉させて頂きます。 まず映画館での口論理由について、韓国人がお金を払わず入場しようとした事を意図的に削除されています。
当時は韓国人達による野蛮な振る舞いで、木本住民も大変な迷惑を被っていたと言うことでした。 その様な中、映画館においても、お金も払わずに我が物顔で入ろうとする韓国人に対して、とうとう木本住民の怒りが爆発してしまった事件だそうです。
木本
2016/09/02 21:53
朝鮮人達は差別されていた事実は確かにありますが、同時に群れをなして随分乱暴を働いていた事も事実です。 又 紀州炭鉱で捕虜になり働かされ亡くなられたイギリス人達もいますが、今では地元住民達により慰霊碑が管理されています。 そしてイギリスの遺族達も地元住民に感謝しているとの事です。
朝鮮人とイギリス人の違いは何でしょう? かたや朝鮮人達は労働者、イギリス人は捕虜、朝鮮人達は戦後の賠償金目的で日本中で、こう言った事件に難癖つけては保証しろ、慰謝料よこせと事実を捏造しては日本に強請集りをしていますが、朝鮮人達の行動にも大きな問題があった事を私達の胸に深く刻み込む必要があります。
朝鮮人
2016/09/05 08:28
朝鮮人の野蛮な行動は、私も幾つか聞いた事があります。
女性を襲ったり、穀物を盗んだり、団体で騒ぎを起こすなど問題になっていました。
昔、私の親戚筋の家にとても賢い猟犬がいましたが、居なくなったので川に探しに行くと、2人の朝鮮人がその猟犬を棒で叩き殺して川で捌いている処に出くわしてしまったそうです。
飼い主は悲痛な思いで朝鮮人達に起こった処、朝鮮人達は野良犬と思ったと言ったそうです。 その犬は名犬で猟が上手く、人にはとてもなついていた犬だったそうです。
その時初めて朝鮮人は犬を食べると聞きました。

後に違う朝鮮人に聞いた処、赤、黒、ぶち、と言った順に味が良いと自慢気に話をしていました。

かと言っても私は朝鮮人達を嫌った事はありませんでしたが、近年に於いてまで日本を貶める様な発言や活動、何時までも続く慰安婦問題ですっかり嫌いになってしまいました。 これは私だけでは無いと思います。大勢の日本人も私の様に朝鮮人が嫌になった人達がいるでしょう。
熊野人
2016/09/05 21:47

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